2018年11月04日

腸内細菌と乳児の健康

心の傷は精神分析では癒せない

 トラウマ体験や歪んだ家庭環境が心身の健康に悪影響を及ぼしそうなことは直感的にもわかる(2p115)。幼少期に逆境を経験すると、成人後も不安障害、パニック発作、鬱病にかかりやすいことはすでに知られている(2p122)

Yehuda-RachelS.jpg けれども、さらに、不思議なことがある。マウントサイナイ医科大学のレイチェル・イェフダ(Rachel Yehuda, 1959年~)教授によれば、ホロコーストの生存者たちが産んだ子どもは、自分自身はトラウマ経験をしていないのにもかかわらず、不安障害、鬱病、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症するリスクが高いのだという(2p124)。母親が経験したストレスやトラウマは、なぜその子どもにまで継承されてしまうのだろうか。

Moshe-Szyf.jpg マニトバ大学のマイケル・ニーミー(Michael J. Meaney, 1951年~)教授やマギル大学のモーシェ・シフ(Moshe Szyf,1955年~)教授はこの謎を解き明かすため、長年研究に取り組んできた(2p125)。そして、この生物学的なメカニズムが解明されてきたのは、ようやくこの30年のことだ。そして、この科学的な知見は子どもを幸せにするうえで役立つ(2p115)

Charles-Nemeroff.jpg カリフォルニア大学サンフランシスコ校のエムラン・メイヤー(Emeran Mayer,1950年~)教授もエモリー大学のチャールズ・ネメロフ(Charles B. Nemeroff,1949年~)教授も、トラウマに起因する精神障害を癒すにはフロイト流の精神分析は役立たないし、心理理論だけでは患者を癒すことはできないと考える。その背景には積み重ねられてきた動物実験がある(2p117)

過保護に育てられたマウスはストレスに強い

Michael-MeaneyS.jpg 1980年代後半に、マギル大学のマイケル・ニーミー教授は、大切に育てられたラットの子どもはストレスに動じない一方(2p118)、ずぼらに育てられた子どもは孤独を好み、不安や鬱に似た症状を起こすことを見出した。その後になされた動物実験では、健全に育てられたラットにストレスを与えても、人間のコルチゾルに相当するストレスホルモン、コルチコステロンがそれほど高くならないことが判明する(2p119)。さらに、マウスの脳を研究することによって、きちんと育てられなかったマウスはストレス分子CRFの分泌量が多く、GABAやそのレセプターを含めて、ストレス反応をコントロールするシステムの効率が低いこともわかってきた(2p120)

エピジェニックがもたらした衝撃

 けれども、なぜ子育てのやり方が子どものストレスの強さに影響するのだろうか。その秘密は、エピジェネティクスにある。ぞんざいに育てられたラットの子ども細胞では、酵素の働きでメチル基のタグがDNAに付加されている。タグはブックマークのようなもので(2p125)、これがあると遺伝子の発現の仕方が変わってしまうのである(2p126)

 エピジェネティクスは二つの世界観の転換をもたらした。

 第一に「獲得形質は遺伝的に受け渡されることはない」という定説が覆された。

 第二に無意識に幼少期のトラウマ等が埋め込まれ精神障害を引き起こすというフロイト流の概念の多くが誤りであることが判明した。ストレスによって脳神経の配線そのものが変わることがわかってきたからである(2p127)

ストレスを受けた母親から生まれた赤ちゃんの腸内細菌は乏しい

Premysl-Bercik.jpgエモリー大学のポール・プロツキー(Paul M.Plotsky)教授が、1日に3時間ほど母親から強制的に引き離すことで生後数週間のラットに対してストレスを与える実験をしてみると、こうしたラットの子どもはIBSと類似した症状を引き起こした(2p122)。そして、マックマスター大学のプレミスル・バーシック(Premysl Bercik)教授は、ぞんざいな養育が脳の神経回路を変化させるだけでなく、腸の反応の鋭敏化をもたらすことも見出す。不安障害や鬱に似た行動の発症に対して、腸内細菌が果たしている役割が初めて明らかになったのである(2p130)

Christopher-CoeS.jpg さらに、研究は進む。ウィスコンシン大学マディソン校のクリス・コー(Christopher L. Coe)教授は、妊娠したアカゲザルに6週間に渡って毎日、10分間警告音を聞かせる実験をして見た。すると、驚くべきことにストレスを受けた母親から産まれた新生児に宿される乳酸菌やビフィズス菌等の善玉菌は、静かな環境で過ごした母親から産まれた新生児に比較して少なかったのだ(2p131)

 生まれる前の胎児は無菌状態で微生物がいない(1p56)。なぜ、母親のストレスが新生児の腸内細菌の構成を変えるのか。発見当初は、まさに謎だった。けれども、現在は、ストレスによって母親の膣内のマイクロバイオータに影響し、それが新生児の腸内細菌に影響を及ぼすことがわかってきた(2p131)

Tracy-bale.jpg 例えば、ペンシルバニア大学のトレイシー・ベイル(Tracy Bale)教授は、狐の匂いを嗅がせて妊娠したマウスにストレスを与えることで(2p131)、膣内のマイクロバイオーム、とりわけ、乳酸菌が減少することを見出す(2p132)

 それだけではない。ベイル教授は、マウスの腸内細菌が生み出す分子を分析し、脳の成長を促したり、特定の脳領域間の神経結合の形成をサポートするアミノ酸が不足していることも見出す。このことは、母親のマウスが受けるストレスが、子どもの腸内細菌に影響を及ぼし、ひいては、脳の発達にも影響することに他ならない(2p132)

 さらに、腸が健全に発達し、免疫系が完成するためにも腸内細菌からの信号が必要なことがわかってきた(1p62)。このことから、人生のはじまりでよい細菌群を得ることがどれほど健康にとって大きな意味を持つのかがわかるだろう(1p63)

ゼロから出発する赤ちゃんの防護スーツ

 さて、人の腸は9mもある。粘液でおおわれる腸の表面積は180平方メートルにも及ぶ。ここが適切な粘液層が形成されなければ細菌や毒素が侵入してしまう(1p57)

 そして、マイクロバイオータがいないマウスの腸の粘液層は薄い。そこで有害な微生物の攻撃にさらされる。けれども、腸内細菌にさらされればすぐに厚くなる。同じように新生児の体内に細菌が侵入して粘液層が新生児の腸の内面を覆うことで子どもの腸は守られていく。腸の内表面を覆う粘液層はいわば防護スーツである。このスーツがあるおかげで腸は守られる(1p57)

母から継承される膣の細菌

 前述した通り、胎児は無菌状態で微生物はまったくいない(1p56)。さらに、成人の腸とは異なり、新生児の腸にはまだ子宮内にいたころの酸素が残されている。まず新生児の腸に最初に入植する細菌は酸素に耐えられる菌でなければならない(1p57)。次に、新生児に最初に移り住む細菌がする仕事は、この酸素を消費することで無酸素環境を創り出すことだ(1p58)

 次に産道を降りてくる胎児がまず出会うのは膣と肛門にいる細菌である。膣にはラクトバチルス属の細菌が多い。次に胎児は大腸の下方を圧迫し、顔全体が母親直伝の細菌まみれとなる。赤ちゃんが、母親の便に含まれる細菌にまず出会うのは進化上、理にかなっている。膣にはラクトバチルス属の細菌が多いが、これらは嫌気性ではないため、新生児の腸内で繁殖できる。そこで、新生児のマイクロバイオータは母親の膣内のマイクロバイオータと似通っている。母親は遺伝子だけでなく自分のマイクロバイオータも子どもに継承していく(1p58)

Ruth-Ley.jpg コーネル大学のルース・リー(Ruth Ley)准教授は、91人の妊婦のマイクロバイオータの変化を調べてみた。その結果、妊娠初期から出産までマイクロバイオータの多様性が低下することがわかってきた(1p65)。分娩の時期が迫ると、母親の膣内のマイクロバイータは多様性を低下させ、通常は小腸に見られる乳酸菌が優勢となり(2p134)、ビフィドバクテリウム属のビフィズス菌も多い(1p59)

帝王切開の問題

 米国では3分の1以上の子どもは帝王切開で生まれるのだが、帝王切開で生まれた子どものマイクロバイオータは、病原性細菌が多くいるプロテオバクテリア門の細菌が多く、ビフィズス菌が少ない(1p59)。そこで、クロストリジウム・ディフィシルが腸内ではびこりやすく(2p135)、肥満、アレルギー、喘息、セリアック病、虫歯にかかりやすいとの研究結果が出ている(1p59)

 オランダのウィレム・デ・ヴォスらが生後100日にわたって新生児の腸内細菌を観察したところ、半分の赤ちゃんに疳の虫があった。そして、疳の虫を持つ赤ちゃんの腸内細菌を調べてみると、その多様性はかなり低く、プロテオバクテリア門の細菌が多く、ビフィドバクテリウム属やラクトバチルス属の細菌が少なく、帝王切開で生まれた子どもや人工乳保育した子供に似ていたことがわかった(1p74)

抗生物質の問題は腸内細菌を減らす

Martin-BlaserS.jpg また、幼少期に抗生物質を投与することで腸内細菌を撹乱すると、成人後も肥満になる可能性が高まることが、ニューヨーク大学のマーチン・ブレイザー(Martin J. Blaser,1948年~)教授のマウスを用いた研究から明らかになっている(2p135)

1日で乳児が野菜を食べられるわけ~母乳の威力

 乳児の腸内細菌は生後数ヶ月に渡って変化していく。スタンフォード大学が2007年に実施した研究では、遷移を明らかにしようとしたのだが、複雑でわからないことがわかった(1p68)

 妊娠中の母親は胎児のために毎日300Kcalを必要とするが、出産後に乳児が必要とする母乳のエネルギーは500Kcalである。そして、母乳には脂肪と乳糖に次いで、ヒトミルクオリゴ糖が含まれている。このオリゴ糖の化学構造は複雑で乳児は消化することができない。母親が貴重なエネルギーを費やしてまで赤ちゃんが消化できないものを母乳に含めているのには訳がある。それは腸内細菌の餌だからである(1p69)。実際、健康な赤ちゃんの腸内にはヒトミルクオリゴ糖を餌とするビフィドバクテリウム属の菌が多くいる(1p70)

 千里眼.jpg乳児は約6カ月で固形物を食べるようになるが、2011年にジェレミー・コーニング(Jeremy E. Koenig)らは一人の子どもの誕生から2歳児半までの腸内細菌が安定したときにまでの変化を完璧にとらえた。この間60回以上も糞便を採取した。そして、腸内細菌が最も劇的に変化したのは、初めてエンドウ豆を食べた時であった。微生物の多様性が一気に増えて突如として異なる菌種が腸内に姿を表したのである。さらに、驚嘆すべきことにその菌はマメが乳児の体内に入ってからわずか1日で菌が出現した。千里眼のトリックにも似て、植物性の食べ物が入ってくる前から腸内細菌はマメを消化する準備を整えていたことになる(1p75)。なぜこのようなことが可能になっているのであろうか。

Bacteroides-Fragilis.jpg こんなことが可能となるのも、固形物を分解する細菌が乳児の体内にすでに存在していたからである。その菌が存在できたのはヒトミルクオリゴ糖があったからである(1p76)。アビゲイル・サイヤーズ(Abigail Syers)の研究によれば、植物組織を分解するヒトミルクオリゴ糖は、バクテロイデス菌の定着にも関わる。乳児が固形物を食べるための準備がなされているのである(1p70)

Milk.jpg 現在の粉ミルクには生きた有用菌を添加したものも出てきている(1p71)。とはいえ、それはたかだか50年の栄養工学や科学研究の結果でしかない。赤ちゃんにどの細菌が理想的なのかまだわかっていない。これに対して、母乳は20万年にも及ぶ進化の結晶なのである。乳児の腸内細菌は一歳までは不安定なことから、一歳まではわずかであってもとにかく母乳を飲ませることが有用だと言える(1p72)

進化と母からの慈悲

 母親から子どもに継承される形質は、進化が産み出した生存のための適応と言える。危険な環境で暮らす母親は、たとえ、自分にそのつもりがなくても、危険な世界だと認知した世界観をこれから生まれてくる子どものためにしつらえる。危険な世界では、慎重で冒険心が乏しい行動を取る子どもの方が生き延びやすいからだ(2p136)

 このため、母親は生まれてくる子どもが成長後に直面しなければならない危険な環境に準備できるように脳のシステムに変更を加える。出産時の膣内微生物の構成を変えることで子どもの腸内細菌の構成を変化させる。次に、ストレス反応と関係する遺伝子にメチル基を付加することでエピジェニックな装飾も加える(2p136)。腸内細菌が変わるのも生きるための進化の知恵だったのである。

【画像】
レイチェル・イェフダ教授の画像はこのサイトより
マイケル・ニーミー教授の画像はこのサイトより
モーシェ・シフ教授の画像はこのサイトより
エムラン・メイヤー教授の画像はこのサイトより
チャールズ・ネメロフ教授の画像はこのサイトより
ポール・プロツキー教授の画像はこのサイトより
プレミスル・バーシック教授の画像はこのサイトより
クリス・コー教授の画像はこのサイトより
トレイシー・ベイル教授の画像はこのサイトより
ルース・リー准教授の画像はこのサイトより
マーチン・ブレイザー教授の画像はこのサイトより
アビゲイル・サイヤーズ教授の画像はこのサイトより
テレビドラマ「トリック」に登場した「千里眼の男」の画像はこのサイトより
バクテロイデス菌の画像はこのサイトより
授乳の写真はこのサイトより

【引用文献】
(1) ジャスティン・ソネンバーグ、エリカ・ソネンバーグ『腸科学-健康・長生き・ダイエットのための食事法』早川書房、2018年
(2) エムラン・メイヤー『腸と脳』(2018)紀伊国屋書店


posted by José Mujica at 22:10| Comment(0) | 腸内細菌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする